悪夢のような最期から一月半が経過し、先週末ようやく一区切りがつきました。心のこもった菩提寺住職の読経の間、私は死後の諸手続で新たに判明した分とあわせ、亡父の足跡やこれまでの出来事の経緯に思いを馳せていました。
東京府の通信系技術職員だった祖父の長男として世田谷(当時はただの原っぱがあちこちに広がっていたそうです)で生を受けた亡父は10歳まで東京で暮らしていました。この頃が一番幸せだったと姉によく話していたそうです(渋谷も今とはぜんぜん違って寂れた郊外だったとか)。その後数年間満鉄出向に伴い東京を引き払って渡満した祖父母とともにハルピンで暮らしていました。大東亜戦争が始まると海軍設営隊の技術スタッフとして徴兵された祖父は昭和19年3月任地に赴く途中で(おそらくパラオ近海で)米潜水艦に撃沈された輸送船とともに運命をともにしました(戦死は敗戦直前通達、遺骨なし)。このとき亡父15歳。皇国史観を植えつけられていたとはいえ、祖父の故郷の九州の地で戦死の報と前後して敗戦に直面した亡父の祖父の死に対する割り切れなさは察するに余りあります。
祖母は夫の死がよほどショックだったのか、それまでの価値観がひっくり返った戦後、全てにおいて投げやりになり、家計は亡父の双肩にかかります。高校卒業後亡き祖父の縁で東京都の臨時職員として働き、祖母や姉弟たちの面倒をみました。高校時代の恩師の励ましもあって自らも苦学の末大学を卒業すると同時に1級建築士をとって、市役所に入庁、建築指導課で市内の建築現場を駆け回る多忙の日々を送るようになります(この期間中アスベストを大量に吸い込んだのが原因で晩年は肺気腫で苦しんでいました)。私や姉が生まれた後も順調に昇進を続け、最後は部長兼環境センターの所長まで勤め上げました。
家庭では、ひたすら努力で身をたててきた自分自身の経験から「教育は一生を左右する」「勉強は一生やるものだ」を口癖のように繰り返し(自らも60半ばまでPCすら触ったことがなかったのにCADを勉強し始めたのを覚えています)、そのための子供へ協力・支援を惜しまない人でした(2人に
毎月学研の学習と科学を買い与えたのもそのためだったのでしょう)。おかげで私も姉も、時には時代錯誤的なことを無理強いされたことで色々反発してきたとはいえ、理工系大学や理学大学院で教育を受けることができました。この点は感謝しなければならない。仮に今の私に子供がいたとして同じことができるのか?−はっきりいって自信はありません。
確かに偏屈なところも多々ありましたが、世界観は決して自己中心的ではなく、日頃から国の行く末や社会についてよく憂えており、昨年
シンガポールから始まった私の「秋月」の活動にも理解を示してくれました。それにしても親父、オレの大学時代の電気化学や化学熱力学の専門書を読んでいたとは凄すぎるぞ、「燃料は燃やしちゃダメ」ってまさか親父の口から出てくるとは思わなかったぞ^^;
急死だった上に昨今急増している葬儀件数のため火葬場予約に余裕がなかったため時間が不十分だったのにもかかわらず、通夜には多数の元同僚や元部下の方が駆けつけてくれました。記帳リストには子どもの頃よく聞かされた父親の話に出てきた名前がずらりと並んでいました(思わず目頭が熱くなりました)。市役所退職から20年以上がたち、全員体の自由も利かなくなり勝ちな70代後半以上であることを考えれば、暇だから来た、なんてことではなく、これはもう亡父に人望があった証といって良いでしょう。自分の父親がここまで慕われていたことを死んでから初めて知るとは・・・子供として失格、情けないとしかいいようがないな・・・
30を目前に控えた頃、認知症になってしまった母親の時はもう本当にどうしようもなくて施設に入れてしまったのですが、いずれはメインで担当しなくてはならない介護を考え私が職場を変えたのを見て亡父は「お前たちに迷惑はかけん」と、おそらく生きがいを感じていたであろう財団の仕事を辞め、母親の介護に専念するようになりました。糖尿病も患いながらほぼ毎日県北まで通っていたのです。情けない私は何だかんだで多くを押し付けてしまいました。だからこそこの人には最期の瞬間をどこで迎えるか選ぶ権利がある、最低でもその希望だけは叶えなければならない、それが我が使命だ−母親の葬儀後目だって老い衰えてきた亡父を見て決心して実家に戻り一緒に暮らすようになって7年、その間も何度も入退院を繰り返す中でいつもと違うと感じた今回「肺炎が小康になった時がその時だ」と自宅で最期を迎えることを本人も希望しかつ覚悟の上で退院準備を進めてきただけに、あの結末はどうしても受け入れ難い−やはり最終的にはいつもここに行き着きます。ささやかな願い一つ叶えられなかった悔いの念を一生引きずるのは不可避だろう。結局父に対しては何も恩返しができなかった。よりによって院内で不注意極まりない事故のために出血性ショックで最後まで苦しませてしまった亡父の人生は果たして幸せだったのだろうか?葬儀後ずっと私を苦しめてきたのは正にこれでした。
「ではご焼香を」−我に返った私から順に焼香が始まり、やがて親族側最後の姪の順番になりました。母親の葬儀のとき小学生だった姪は今高校生になっています。今回も中間試験前にもかかわらずわざわざ足を運んでくれました。無理はしなくていいんだよと伝えていたのですが、本当に有難いことです。私にできることは、今となっては生まれた直後亡父が本当に嬉しそうに抱いていたこの姪の世代のためになることをすることしかない。生きていれば「お前もやるときはやるじゃないか」と笑いながらいつもの調子で小突いてくることだろう。当の本人がもうこの世にはいないのがつくづく寂しいところです。
来週21日、我々が開発・建造した世界最先端の水素船ブルーノア号上より金環日食を中継します。ニッポンが誇る快男児・山本太郎さん、新生日本を担う子供世代を代表して我らが「秋月」の頭脳・シズマ博士のご子息・ご令嬢がリポーターです。年明けから始動した「ゴールデンリングと希望の船」製作委員会の集大成、是非皆様のご視聴をお願い申し上げますm(_ _)m
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日食中継日時:2012年5月21日(月)AM6:00〜AM10:00まで中継予定(当日は晴れ、だそうです♪)
視聴先アドレスは、下記リンク先をご覧ください。
@ 大銀河放送局 USTREAM
http://www.ustream.tv/channel/%E5%A4%A7%E9%8A%80%E6%B2%B3%E6%94%BE%E9%80%81%E5%B1%80A ゴールデンリングと希望の船チャンネル ニコニコチャンネル
http://ch.nicovideo.jp/channel/ch2525240※ニコニコ動画での観賞はアカウントが必要です。アカウントをお持ちでない方は事前に新規登録をお勧めします。
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posted by 冬の花火師 at 00:39| 東京

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